映画『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』が「千と千尋の神隠し」を抜き、国内最高興行収入を記録した。
2020年の日本経済は鬼滅の刃が支えたと言っても過言ではないほどにフィーバーを起こしまくった。
僕はブームには完全に乗り遅れ、12月の4週目に映画を初めて観た。
想像の数倍、いや数十倍素晴らしい映画で、後半はずっと鼻水をすする音が周りの迷惑にならないように気を付けることに必死だった。
そしてその足でマンガ喫茶向かい、一気に全巻を読破した。
とっくの昔に映画を観終わり、漫画を全巻揃えているという人からすれば僕はにわか中のにわかだ。
そんなにわかが【考察】をすることはおこがましいことかもしれない。
しかし、「恋は盲目」という言葉もある。
何かを好きになり過ぎると、周りが見えなくなるということだ。
つまり、にわかファンだからこそ気付くこともあるだろう。
だから今回はそんなにわかファンの僕だからこそ、この説を唱えたい。
【竈門炭治郎、次男説】
何を言っているかわからないかもしれないが、もう一度言おう。
「主人公・炭治郎は、本当は長男ではなく次男なのではないか」と僕は仮説を立てているのだ。
もちろん荒唐無稽なことを言っているわけではなく、これには根拠が2つある。
理由その①炭治郎という名前
まず炭治郎という名前。
「週刊少年ジャンプ」や単行本派の人たちはこの名前に特に違和感を感じないかもしれないが、アニメや映画で初めて観た人たちは「たんじろう」という名前を聞いた時、まず初めに「炭次郎」と脳内変換したのではないだろうか。
「次郎」もしくは「二郎」。この文字が名前のどこかに付いている人はほぼ間違いなく次男だ。次男でなくとも、二番目に生まれた子どもである(姉がいる)可能性が高い。
だが炭治郎の字は「炭二郎」でも「炭次郎」でもなく「炭治郎」。
ここからは推論だが、(というか最初からすべて推論だが)、炭治郎には実は兄がいる。
そしてその兄は物心つく前、もしくは生まれてすぐに亡くなっている。
というのも、鬼滅の刃の時代背景は大正時代。この時代の平均寿命42~44歳と、今のおよそ半分。
鬼滅の刃のストーリーからも読み取れるように、当時は今のように物に溢れた生活をしている人はごく少数で、貧しい家庭が多かった。
食べ物どころか住む家も着る服もない人たちが大勢いたのだ。
その影響で、栄養失調で亡くなってしまう子どもが数えきれないほどいた。
当時の乳児死亡率は15%というデータが残っており、10人子どもを産めば1人か2人は1歳の誕生日を迎える前に命を落としてしまう。そんな時代だったのだ。
そんな時代背景を考慮すると、6人兄弟である炭治郎たちにに実はもう一人きょうだいがいて、1歳になる前に亡くなってしまっているという仮説はデータ上は充分ありえる推理であると言える。
きっと両親は、二人目の子どもだから「炭次郎」もしくは「炭二郎」という名前を最初はつけようとしたかもしれない。
しかし、次に生まれてくる子には長男として下の弟妹たちや家を守ってほしい。
そんな思いを込めて”次”や”二”という漢字を使わず、「炭治郎」と名付けたのかもしれない。
どうだろう?
充分あり得る話ではないだろうか?
しかしこれだけでは「炭治郎が次男だ」と言い張るにはあまりにも根拠が乏しい。
そこで第2の理由を説明する。
理由その②「長男だから我慢できたけど次男だったら我慢できなかった」発言
僕には作中の炭治郎のセリフでどうしても引っかかっている箇所がある。
それは
「俺は長男だから我慢できたけど次男だったら我慢できなかった」
というセリフだ。
この発言を巡ってはネット上で既に論争が繰り広げられている。
その多くが
『「長男(長女)だから我慢しなさい」という教えは教育に良くない』
というものである。
実際に長男や長女で、こういった教育を親から受けて育った人は多くいるようだ。
この炭治郎の発言に関しては、「家督や家柄を重んじる大正の時代背景がそうさせた」ということでひとまず収まっている。
しかし僕はここに疑問を抱いた。
この炭治郎の発言は直訳すればこうなる。
「長男は我慢強いけど次男は我慢弱い」
何を隠そう僕も炭治郎と同じく6人きょうだいの長男なので、炭治郎の気持ちやこの発言の意味はよくわかる。
実際に「家を継ぐ者」として子どもの頃からプレッシャーをかけられて育った。
親が言わずとも、親戚や周りの大人たちから「長男」として、他のきょうだいとは違う扱いを受けているということは肌で感じていた。
それは何もイヤなことばかりだったわけではない。
長男だからと特別扱いしてもらって嬉しかったこともあった。
しかしそれ以上に我慢しなければいけないこともあった。
だからこそ炭治郎の発言に全面的に賛同できる。
長男は我慢強いのだ。
でも僕は考えた。もし僕が次男だったら、「俺は長男だから我慢できたけど次男だったら我慢できなかった」発言に対してどんな感情を抱いただろうか?
「次男をバカにしてるのか?」
「長男がそんなに偉いのか?」
もしかしたらそんなことを思ったかもしれない。
そう、これこそが僕が最も違和感を覚えている所以である。
あの炭治郎が、誰かを不快に思わせることを言うだろうか??
人を励まし、慈しみ、思いやって、光を与え続けてきた炭治郎が、言葉にしないまでも「次男は我慢ができない」そんな風に思うだろうか??
この違和感を払拭するたった一つに仮説こそが、先ほどの「炭治郎次男説」である。
きっと炭治郎は両親から
「お前には本当はお兄ちゃんがいたんだよ。でも生まれてすぐ亡くなっちゃったんだ。だからお前は亡くなったお兄ちゃんの分も下の弟や妹たちを守ってやってね。」
こんなことを言われたのではないだろうか。
これなら炭治郎が「長男」という立場を尊び、特別視しているのも納得できる。
炭治郎は自分のためではなく誰かのためとなると、より力を発揮できる少年だ。
炭治郎が「長男」という言葉を使う時には、常に「亡くなった兄」を思い浮かべているのではないだろうか。
ここまでを踏まえてもう一度例のセリフを見てみよう。
「俺は長男だから我慢できたけど次男だったら我慢できなかった」
このセリフは、「長男・炭治郎」なら我慢ができるけど「次男・炭治郎」なら我慢できなかったという風に読み取れはしないか。
自分は本当は次男であるということを両親から聞かされているからこそ、亡くなった兄の分も自分は頑張らなければいけない、俺は長男だ!と自己暗示をかけているように思えてならない。
つまり弟・竹雄(次男)のことを指して「我慢ができない」と言っているわけではなく、自分自身に対して向けたセリフなのだ。
炭治郎はいつだって他人に優しく、自分に厳しい。
だから炭治郎が「誰かと比較して自分が優位に立つ」ということはたぶんない。
比較することがあるばなら、それはきっと自分自身だ。
炭治郎みたいになりたい
いかがだっただろうか?
一人のにわかファンの考察。
と言うより、ただの妄言に過ぎないかもしれない。
作品が完結しているので、予想ですらない。
「本当のところはどうなのか?」なんてことは知る由もないし、知る必要もない。
キャラクターの発言一つでここまで考察をさせてくれるのは、ひとえに作品の魅力・キャラクターの魅力のおかげと言うほかない。
この作品をじっくり観るまでは、炭治郎のことをなんとなくいけ好かないヤツだと思っていた。
今時、王道の正義のヒーローなんて流行らないと思っていた。
でも炭治郎のまっすぐさ、他人を尊重して良い影響を与え続ける姿勢には感銘を受けたし、見習いたいと思った。
僕も炭治郎のように生きていきたい。
なんて最後は真面目な文章になってしまった。
とにもかくにも、「炭治郎次男説」が「俺は長男だから我慢できたけど次男だったら我慢できなかった」発言に関する論争に終止符を打つことを切に願う。
最後まで読んでくれてありがとう!