自分は何中毒だろう?
中毒の本来の意味は現在の使われ方とは少し違うようだけど、今は概ね「依存症」と同義で使われている。
依存症とまでいかなくとも、対象物にハマっている状態のことを○○中毒と表現することがある。
日本語の乱れを指摘したり、「本来の意味は~」と知識人ぶるつもりもないんだけど、僕自身「中毒」という意味の持つ本質を理解していないから、分析しながら僕なりの「中毒の定義」を考えていきたい。
「毒」という言葉が入っているからには、やはり自分自身の身体や精神に悪影響を及ぼしているということになる。
「アルコール中毒」「ニコチン中毒」が最も代表的な例だ。
これらは総じて、”摂取量によっては健康に甚大な被害をもたらすことがある”という点では文字通り「毒」である。
しかし今回はそこはどうでもいい。
いや、どうでもよくはないけど、今回着目したいのは身体への影響ではなく精神への影響なのだ。
例えばここにアルコール中毒患者が2人いるとしよう。
アルコール中毒A:
「俺は酒飲むのが生きがいなんだよぉ!誰がなんと言おうと俺は酒を飲み続ける!俺の肝臓はそんなにヤワじゃねえ!死ぬ最後の瞬間まで酒を飲み続けるぜ!俺が死んだら毎日墓に酒を供えてくれやぁ!!」
アルコール中毒B:
「本当はわかっているんです…。お酒をやめなくちゃって。家族に迷惑をかけていることも頭ではわかっているんです…。明日こそ…!明日こそ絶対にやめる!と思っていても気づいたらお酒を買ってしまっているんです…。こんな自分が情けないです…。」
この場合、真のアルコール中毒者は死ぬまで酒を飲み続ける決意をしているAではなく、酒をやめたくてもやめられないBの方であると僕は思う。
Aの方が肝臓や身体に与える影響は大きいかもしれない。
しかし、精神を蝕んでいるのは圧倒的にBであると断言できる。
つまりここでわかることは、
中毒とは:定義①
「やめたいのにやめられない状態」
だということだ。
この定義を元に考えると、世の中の○○中毒は基本的には中毒に当てはまらない。
Twitter中毒、筋トレ中毒、映画中毒etc……
ほとんどの人は自分で選択して「やりたいから」やっているのだから、「やめたいのにやめられない」状態には当てはまらない。
かっぱえびせんの有名なフレーズ「やめられないとまらない」という言葉があるけど、あんなに怖い言葉はない。
あのフレーズからは
「どうしてだよお”お”!どうしてやめたいのにやめられないんだあ”!もうかっぱえびせんは食べたくないし見たくもないのに!それでも手が止まらないんだあ”!!カルビーさんよお!一体俺に何の恨みがあるんだあ”あ”!!」
という悲痛の叫びが聞こえてきそうだ。
カルビーとの仁義なき戦い:「かっぱえび戦」と言ったところか。
もしあのフレーズ通り、かっぱえびせんを食べるのがやめられないしとまらないという人がいれば、それは間違いなくかっぱえびせん中毒である。
僕が知る限りそんな人は今まで一人もいない。
みんなかっぱえびせんを食べることをやめたくないし手を止めたくない。
おいしいから食べるのだ。ただそれだけのシンプルな理由。
カルビーは直ちにあのフレーズを
「やめたくないずっと食べてたい」
に変更すべきだ。
少し話が逸れてしまったので元に戻したい。
つまり僕が言いたいのは、アルコールであろうとニコチンであろうとギャンブルであろうと、そこに絶対的確信があるのならそれは中毒じゃないんじゃないかってこと。
「本当は辞めないといけない…」という背徳感を持ったまま続けることが何より精神をすり減らしている。
もちろん他人に迷惑をかけるのはNGだ。
自分の好きな行為を続けることで家族や恋人・友人に不快な思いをさせているならそれは即刻やめるべきだ。
ただそうではない場合、他人に迷惑をかけずに自分の好きなことに熱中しているのなら、その行為は中毒ではなく「趣味」という言葉に変わるのではないだろうか。
とは言っても趣味には健全なものとそうではないものがある。
例えばスポーツや料理・読書などは健全な趣味と言える。
頻度や程度にもよるが、身体に害を及ぼす可能性がほとんどない。
対してアルコールやニコチン・ネットなどは人体に少なからずダメージがある。
アルコール中毒・ネット中毒という言葉をよく耳にするのに対して、料理中毒・読書中毒という言葉を聞いたことがないのはそのためだ。
ここで新たな定義が生まれる。
中毒とは:定義②
「(身体に悪影響があるから)やめたいけどやめられない」
ふむふむ。少しづつ中毒の定義が定まってきたぞ。
ではここでこの定義をもとに僕の中毒を考えてみると、僕は「寝る前スマホ中毒」であるといえる。
寝る前に布団の中でスマホを観てしまうことによって睡眠時間も減ってしまうし、ブルーライトが脳の中の眠りを促す物質「メラトニン」を現象させてしまうから眠りの質が下がり翌日爽やかに起きられない。
ここまでわかっているのに、ついついTwitterやYoutubeなどを観てしまう。
これはまさに「身体に悪影響があるからやめたいけどやめられない」という定義に当てはまっている!!
なるほど!
中毒とは「(身体に悪影響があるから)やめたいけどやめられない」という意味だったんだ~!
と、ここで終われれば話は早かったんだけど、僕にはもう一つ中毒があることに気付いてしまった。
それは「ダラダラ中毒」だ。
ブログを書いていても何か作業をしていても、1時間ほどで疲れてすぐ横になってしまうのだ。
そして一度横になったが最後、そのまま寝るかスマホをいじるかの堕落タイムに突入してしまうのである。
このダラダラ行為は、「やめたいけどやめられない」ことなんだけど、身体に悪影響があるかと言われるとむしろその逆で、身体が休養を求めているからダラダラしてしまうのではないだろうか。
とするとさっきの定義「(身体に悪影響があるから)やめたいけどやめられない」が該当しなくなってしまう。
う~む。またふしだしに戻ってしまった。
中毒を一体どう定義すればいいのだろうか…。
ここでまた僕は一つの判断基準を思いついた。
「その行為をしている自分が好きか?」
と自問してみるのである。
「ダラダラする自分は好きか?」
答はNOだ。
「ブログを書いている自分は好きか?」
答はYESだ。
「その行為をしている自分が嫌い=その行為をやめたいと思っている(でもやめられない)」
ということになる。
ここから導き出されるのは
中毒とは:定義③
「その行為をしている自分が嫌いだからやめたい。けどやめられない。」
僕は寝る前にスマホを観てしまう自分が嫌いだ。だからやめたい。
ダラダラしてしまうのはイヤだ。だからやめたい。
うん。しっくりくる。
自分が中毒にかかっているかどうかは、この定義を基準に考えれば答が出るんじゃないだろうか。
どんな行動であれ習慣であれ、それをしている自分が嫌いならその行動はすぐにやめるべきだ。
行動の選択を迫られた時、どっちの自分を好きになれるか。
嫌いな自分を選択し続けていると、それは文字通り毒となっていつの間にか身体を蝕むことだろう。
だからこそこれから先、僕は何かにハマった時必ずこの質問を自分にしてみる。
「それをしている自分が好きか?」
僕は今ブログにハマっている。
↓
僕はブログを書いている自分が好きだ。
↓
だから僕はブログ中毒者ではない。
このシンプルな方式に当てはめれば中毒か中毒ではないかがすぐにわかる。
あなたも何かのめり込んでいるものがあれば、一度自分自身に問いかけてみてほしい。
最後に
僕はブログ中毒者ではないという結論に至ったけど、何かにハマっている状況を「○○中毒」と表現するのは言いえて妙だし、実に伝わりやすい。
しかし僕は中毒という言葉を使わずにそれを伝えたい。
なので僕は「愛好家」という言葉を使いたい。
何かを熱烈に好きな状態。
ブログ愛好家。
僕がブログ中毒ではなくブログ愛好家であり続けるためには、ブログを好きでいることが一番だと思う。
そしてそんな自分を好きでありたい。
ブログに限らず、どんなものに対しても僕は中毒者ではなく愛好家になりたい。
そんなお話。
毒にも薬にもならない話を読んでくれてありがとうございました!