※この記事はTwitterの企画「3000文字チャレンジ」にて、装飾なしの文章のみで3000文字書くという内容です。
今回のお題は「書くということ」です。
「書くということ」
について考えた時、まず最初に思ったのは「書」っていう漢字を初めて書いた時めっちゃ縦長になったよなぁ…ってことだ。
こんな初見殺しの漢字もなかなかないだろう。
これを一発で方眼紙のマス目内におさめられる小学生がこの世に存在するのか??ってレベル。
いや、そんなことはどうでもよくて、「書く」って改めてなんだろうって。
・そういえばなんでブログやってるんだっけ?
・パソコンに入力するのって「書く」って言えるのか?
なんてことを考えてると、学生時代に授業で習ったことをふと思い出した。
「エクリチュール」と「パロール」だ。
何の授業だったのかもはや忘れてしまったのだけど、その言葉が妙に僕の心を魅了したことは覚えている。
確か「エクリチュール」が書き言葉のことで、「パロール」が話し言葉のことだ。
どうやら哲学用語に分類されるらしい。
「哲学」なんて授業はなかったからますます何の授業だったのかわからない。
エクリチュール=書き言葉
パロール=話し言葉
ということしか頭に入っていなかったが、「エクリチュール」という言葉の響きをいたく気に入った僕は、仲間内でよくこの言葉を多用していた。
「今日バイトやん!エクリチュールやって〜( ´Д`)」
「え?留学するん??エクリチュールやなぁ!( °ω° )」
などというように、「エグい(すごい・やばい)」という言葉の代わりにエクリチュールを乱用していた。
エクリチュールという言葉を使うだけで、自分たちが頭の良い集団になったような気がしていた。
エクリチュールの本来の意味なんてとっくに忘れてしまっていた。
話を元に戻そう。
エクリチュールとパロールの大きな違いは何かというと、エクリチュール(書き言葉)は永続的あり、パロール(話し言葉)は瞬時的であるということだろう。
ブログにせよ手紙にせよ、書いたものはそれを意図的に破棄しない限りは半永久的に残り続ける。100年前の資料だって、保存状態がよければ読むことができるのだ。
だけど相手に伝えるのに時間がかかる。目の前に相手がいるのにわざわざ書き言葉で伝えるのは効率が悪い。
もっとわかりやすく言うと、エクリチュールは文字でパロールは音声だ。
エクリチュールの方が伝達範囲が広く、パロールの方が伝達時間は早い。
どちらにも片方にはない特徴があり、長所がある。
と言うのが僕の認識だったのだが、ちょっと待てよと。
確かに昔はその認識が正しかったのかもしれないが、今は違う。
CDもあるしYoutubeもある。
文字の長所であるはずの「永続性」が、音声にも与えられてしまったのである!
音声を保存していつでもどこでも再生することができるようになったのである!
こうなるともうエクリチュール(書き言葉)に勝ち目はない。
パロール(話し言葉)の方が伝わりやすい上に、再現性まであるのだから。
再現性しか取り柄のないエクリチュールは涙目必至。
あれ??じゃあブログとかいらなくね??
Youtubeとclubhouseだけでよくね??
とここで冒頭の疑問に再び直面する。
じゃあ何でブログやってんだ??
「ブログはオワコン」と叫ばれて久しいし、時代は音声配信に移行している。
それなのに何故、人々は未だにブログを書き、そして読むのか。
・ブログの方が修正がしやすい
・ブログの方が全体像がわかりやすい
などなど、挙げていけばもっともらしい理由はいくらでも見つかるが、もっと単純明快な一つの理由を僕は推したい。
人がブログを、文章を、文字を書く理由。
それは、
「文字を愛してるから」
だと僕は思う。
人類がまだウホウホ言ってた頃、文字なんてものはなかった。
文字なんてなくても言葉があれば十分だった。
そして人類は目まぐるしいスピードで進化していった。
脳の中に様々な知識が増えていった。
「これ以上脳に知識を追加することができない!」
ってなった時、
「せや!外部メモリ代わりに”文字”っていうの発明したろ!子孫に情報残したろ!」
ってなってできたのが文字。
これ最初に考えた人すごすぎない??
だって文字ってさ、読めない人からしたら暗号の羅列でしかないわけじゃん。
それを国中の人間が理解できるようになるまでにどんだけかかるんだって話ですよ。
文字こそが人類の大発明でしょ。火薬も羅針盤も活版印刷も文字の前ではかすんで見える。
はるか昔の僕らのご先祖様が文字を発明してくれたおかげで、人類は更なる発展を遂げることになったし、生活は便利になった。
文字は僕ら人類にとって必要不可欠なツールだし、発展の象徴でもある。
そんな”文字”を、人類は愛しすぎている。
元々はツールのひとつでしかなかったのに。
「文字っていうの作ってみたけどやっぱあんま需要ないわ!」
ってなったらmixiみたいに一時的に流行ってすぐに廃れていてもおかしくなかったはずだ。
でも、あまりにも便利すぎてあまりにも日常生活に浸透しすぎた”文字”は、”ツール”と言う概念すら超越してしまったのだ。
文字に好きも嫌いもない。ただ当然のようにそこに存在しているのだから。
文字が誕生して何千年も経った頃、音声を録音して保存するツールが生まれた。
Twitterが生まれて廃れていったmixiのように、文字もまた新しいものに凌駕されてもおかしくなかった。
だけど文字は消えなかった。今もなお第一線で走り続けている。
それは、人類の遺伝子レベルで
「文字を廃れさせてはいけない」
というDNAが組み込まれているからだろう。
そう、僕らに「文字を使わない」という選択肢はないのだ。
文字を「読む」か、「書く」か。そのどちらかしかない。
「それなら書く側にまわってやろうじゃないか」という「同じアホなら踊らにゃ損」理論の人たちが作家やブロガーである。
結論、僕たちは本能で「文字使いてー!」「文字に触れてー!」って毎日思ってる。
スマホ依存なんて目じゃないほどに文字に依存しまくってる。
その本能に抗う必要なんてこれっぽちもない。
便利でお手軽で歴史もあって汎用性の高い「文字」と言うツールを僕たちは愛しすぎるほど愛しているし、これからも未来永劫愛し続けることだろう。
ウホウホ言いながら文字を発明してくれた先祖のためにも、僕たちは文字を伝え続けなければならない。
そんな命令が僕のDNAのどこかに書かれていて、今こんな文書を書いているのかもしれない。
考えてみりゃ本当にすごい話だ。文字が読めれば(言語の違いはあれど)この「文字のかたまり」である雑記を世界中のどこからでも読んで意思の疎通がはかれるんだから。
改めて考えると本当に文字ってすごいよ。
文章ってやばいよ。
ブログってエグいよ。
マジでエクリチュールだわ。うん。
今回の「書くということ」というお題をもって、「3000文字チャレンジ」は最終回を迎える。
3000文字もただひたすらお題に沿って文章を書くということがエクリチュールなのに、毎週お題を出し続けて何と今回が126ケ目のお題だそうだ。
もはやエクリチュールとしか言いようがない。
そして、この企画に一度でも参加して3000文字も文章を書いてきたブロガーたちもまた、超がつくエクリチューリストだと思う。
3000文字チャレンジという企画が終わっても、エクリチューリストたちが書いたエクリチュールな記事たちは残り続ける。
そしていつの日かまたエクリチュールなブロガーの元にエクリチュールな記事が届くことだろう。
それってすごくエクリチュールなことだと思うんだ。
ありがとう。3000文字チャレンジ。